*ガテムス弁当*

ガテン夫と愛娘のお弁当の記録

お弁当(夫)220709 お弁当にまつわるお話

昨日は忙しかったとかでお昼ごはんが食べられなかったという主人。夜帰宅してから、いまからお弁当を食べると言って聞かないので、さっさと片付けた。

作ってくれるだけでありがたいと言ってくれる言葉通りいつもきちんと食べてくれていることを、私はよく知っている。以前、ずいぶん前の夏の日のこと、、昼と夜の連続勤務で、やはりその日も休憩が取れず、主人は日付が変わった真夜中にお弁当を食べようとしたそうで、まわりにとめられて食べずに済んだのだと、そんな話を、主人のお世話になっていた親方さんにきかされたことがある。私はその時、主人の姿が目に浮かぶように感じて、それから、大丈夫だよというようなことを伝えたい気持ちになった。何が大丈夫なのかというと、そんなにしなくて大丈夫だということ、あとは、大事にしてくれていることはちゃんと分かっているから、もうその気持ちだけでじゅうぶん、大丈夫だよ、ということかな。お弁当だって大丈夫、きっと成仏してくれたことでしょう。

✳︎主人のお弁当

カブの葉っぱのまぜごはんにハンバーグのお弁当、メインのハンバーグのほかは、ちゃちゃっと、レタスときゅうりのサラダに、卵焼き、生姜の甘醤油漬け、たくわん、こんぶ

f:id:gatemusubento:20220709140458j:image

お弁当にまつわるお話というと、他にもうひとつ、忘れようとすればするほどに思い出してしまうような悲しい話がある。

それは、いじめについてのお話で、お母さんにつくってもらったお弁当をいじめっ子がごみばこに捨ててしまうというものだ。

自分のお弁当を捨てられてしまうということ。

きっとどんなでもお母さん(あるいはお母さんでなくても誰かそのお弁当の作り手)の気持ちがこもっているだろう、おそらく、多少なりでもそれがわからないことはないだろうその子の大切なお弁当を、それを捨てられた時には、その子の心にはどんなに深い悲しみが刻まれたことだろうかと、いちばんにそのお弁当を捨てられた子の悲しみに心が痛くなるし、そして、そんなことをしえるほどに人のこころが壊れてしまった、あるいは、人のこころを知り得ていない、いじめっ子の悲しいこころにも、苦しさをおぼえてしまう。お母さんには気の毒ではあるけれども、お母さんとしては、お弁当のことなんかより、子どもの悲しみがただただ悲しいことだろうと思う。

お弁当にまつわることだけではなく、、どうかそんな、悲しみが悲しみを呼ぶようなことではなく、一歩踏み込むくらいの暖かさにつつまれた世の中であってほしい、と思うことがあるな。私たちにはなにができるんだろうってね、すっごい抽象的、なんだけれど、でも、そんな気持ちだけでも広まって深まっていけば、なにかになるんじゃないかと、そう願っている。

こんな夕涼みの空、お滑り台に寝転んで空を見上げてみたりしながら、、ぼんやりと、、これ(下の写真)は、昨日の夕方、公園で。

f:id:gatemusubento:20220709145315j:image

そして、私はお弁当を捨てられた子も、捨てた子にも、本当のあったかい人の心に触れ合うことがあってほしいと思っているし、きっとそれは叶うもの、またはもう叶っているものだと信じている。

どんな悲しみも苦しみも、必ず乗り越えられると、誰にでもそんな力があるはずだと私は思っているから、そんな風に思うんだ。

だからもし、いまそんな淵に立っている人がいたとしたなら、私は、あきらめないで、と伝える。励ましてはだめだとか、頑張ってと言ってはいけないなどと言われたりもするのだけれど、でもやっぱり、私は言ってしまうだろうな、負けるないでと、あきらめないでと、乗り越えられるよ、とね。なぜなら、どんな人の中にもその力が必ずあるものだから、あとはその力があることに気がつけるかなんだ、その力を信じられるかなんだ。自分の力を信じられればもう活路を見出せたも同じ、必ず進む道が見えるんだ。

うん、私もあきらめないでやっていこうっと。